大阪の茶道の歴史と茶道具の買取り

茶道の歴史というと、千利休や、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家は有名ですが、そもそも何故そのような体制になったのでしょうか。そして現在の学校のクラブ活動などで行われる茶道とのつながりはどのようなものでしょうか。茶道具の価値の一つは歴史的価値ですので、茶道具を知るにはその歴史を踏まえる必要があります。ここでは大阪の茶道および茶道具の歴史について説明します。

茶道の始まり

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茶道の歴史はとても古く、その起源は鎌倉時代まで遡ります。
お茶を飲むだけで言うと、平安時代に空海と最澄が中国から持ち帰ったのが最初だと言われます。しかしあまり普及はしませんでした。その頃のお茶は薬の一種であり、漢方薬のようなものでした。
お茶を飲む習慣が普及したのは日本に禅を伝えた栄西が、中国からお茶を持ち帰り、日本に最初の茶園を開いたのが始まりだと言われます。
室町時代に入ると、茶会は、中国の美術工芸品を飾り立てた座敷で、お茶を中心とした宴会をするという、娯楽性の強い催しになりました。そこではお茶の銘柄を当てる闘茶という博打が流行しました。

侘び茶の展開

室町時代の華やかな茶会を否定する流れは同時代からありました。足利義政の茶の師匠の村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客の精神的な交流の重視を提唱しました。このようにして侘び茶の原点がうまれました。そして安土桃山時代に堺の豪商である武野紹鴎とその弟子の千利休が、現在我々が知るかたちの茶道を完成させました。
元々商人であった千利休の作った茶道は、武士階級にも広がっていき、古田織部や高山右近など利休七哲と呼ばれる高名な弟子たちを輩出しました。

三千家の成立

江戸時代初期には茶の湯はまだ大名や豪商などだけのものでしたが、江戸時代中期に入り、社会が安定し経済的にも成長すると、茶の湯の文化が庶民にも広がっていきました。増大した茶道人口を受け入れると共に、再び茶の湯が娯楽性の高い催しに堕落してしまうことを防ぐため、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家ができ、新たな稽古の方法として七事式を制定するなど、千家の茶道を広めていきました。

明治維新後の茶道

明治維新後、文明開化の流れとともに茶道も一時期すたれますが、時代に合わせた茶道のあり方を模索することにより生き残っていきました。1872年の博覧会では外国人のために正座ではなく椅子に座って行う茶道を考案したり、女学校の教育に茶道を取り入れたり、教授方針を教えるための講習会を開くなど、近代的な形による普及に努めました。
具体的には

  • 明治五(1872)年に設立された京都の新英学校・女紅場(現:京都府立鴨沂高校)
  • 明治八(1875)年に設立された東京の跡見学校(現:跡見学園)
  • 明治十八(1885)年設立の華族女学校(現:学習院女子大学)
  • 明治十九(1886)年共立女子職業学校(現:共立女子大学)

などで茶道が取り入れられました。

また日本古美術としての茶道や茶道具の見直しは、新しい豪商といえる財閥などによっても行われました。利休七哲の一人である織田有楽斎の茶室である如庵は明治6年に売却の対象となり、その後有志たちによって保存公開されていましたが、維持運営が困難となり明治41年に全館売却となりましたが、それを購入したのは三井財閥でした。三井財閥はこれらを東京の三井本邸に移築しました。
茶会は上流階級の社交の場として使われるようになり、そのステータスがその後の新興階級や中産階級にも引き継がれたというように考えられます。このことは上記のように女学校に茶道が普及したことの背景となっているでしょう。

戦後の茶道

戦後になって、裏千家などは茶道の学校への導入を働きかけ、学校のクラブでの採用を推進しました。また各地の神社や寺院で献茶や供茶を行い、さらに海外への普及に取り組むなどもしました。
これらの茶道の普及に積極的だったのは裏千家でした。1872年の博覧会で椅子に座って行う茶道を考案したのは11代玄々斎ですし、戦後の学校教育への導入を働きかけたのは裏千家第14代淡々斎でした。また社団法人茶道裏千家淡交会を結成し、家元を財団法人化するなど、裏千家の近代的な組織化も推進されました。このようなことから、現在では茶道人口としては裏千家が最大規模を誇っています。

茶道具の歴史

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茶道具の歴史に注目してみると、最初に茶道具が尊重され始めたのは室町時代の華やかな闘茶の時代になります。このころ唐物などの道具を尊ぶ風潮が現れました。
千利休も活躍した天正年間には道具の価値観が大きく変化し、茶壺や茶入などが尊重されるようになりました。この頃から江戸初期にかけて、茶道具の記録やランク付けが盛んに行われるようになり、大名物や名物や中興名物といった区分けがされるようになりました。大名物は足利将軍家が所有していた東山御物と、利休時代に高く評価されていた茶入などになります。
江戸時代中期に三千家の家元制度が確立し、茶の湯が庶民にも広がりました。時を同じくして骨董という趣味も庶民に広がっていきました。それまでも骨董品や名物を集める趣味はありましたが、大名や貴族などの趣味であり、庶民に広がったのはこの時代になります。その頃の骨董とはまさに茶道具のことでした。
明治になると、文明開化の当初は、日本の古美術は価値がないものとみなされ二束三文で処分されてしまいました。それを外国人が買いあさり、今でもボストン美術館などに日本美術コレクションがあります。明治もしばらくすると、その状況に対して揺り戻しが発生し、日本の古美術を積極的に認めていこうと言う動きが出てきました。その時にパトロンとなったのは、江戸時代の大名ではなく、その時代の豪商と言える財閥などになります。そして名物は財閥の所有になり、茶会は上流階級の社交の場となりました。その上流階級の文化は、新興階級にもステータスとして引き継がれ、第一次世界大戦の戦争景気から成金と呼ばれる人たちが登場し、茶道具をはじめとした古美術品の取引が全国的に活発になりました。
第二次世界大戦が始まると古美術品の取引も下火になりましたが、戦後に高度成長期を迎え、再び古美術品にスポットが当たるようになりました。しかし国宝級のものは財閥が美術館に所蔵するようなものとなったために、この時代以降は伊万里焼や民芸品なども古美術品として扱われるようになり、茶道具も名物だけではなく様々なものが骨董品として流通するようになりました。

大阪における茶道具買取り

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以上のように、茶道具には室町時代からの歴史があります。どの時代にも高価なものがあり、その時代の有力者たちに尊重されてきました。その間大阪は、政治的な中心地であったこともあればそうでなかった時期もありますが、常に日本有数の大都市として、豊かな町人文化を持ち、高価な茶道具を所有する人たちの多く存在する町でした。そのため骨董として扱われるような茶道具の存在する可能性の高い場所であると言えます。
しかし、美術館に入っているような名物については、まだこれから出てくる可能性がないわけではないですが、掘り出し物として出てくることはあまり期待できないかもしれません。しかし、名物以外であっても、骨董としての茶道具の流通は江戸中期から始まっており、その後も大阪が日本一の産業都市であった明治から大正にかけての骨董のブームがあり、さらに戦後の高度成長期がありました。そして骨董の定義とは100年を経過した古美術のことです。名物ではないにせよ、十分に骨董としての価値のある茶道具がまだまだ眠っている可能性も高い土地が大阪であると言えます。